スポーツ観戦と大学選びの共通点

連日連夜、マスコミはオリンピック一色ですね!
4年に1回しかチャンスがないなんて、どれだけの想いで選手の人たちは試合に臨んでいるんだろう、と想像すると、オリンピックって本当にすごいな、と思います。
とは言え、オリンピックに限らず、スポーツ観戦が苦手な私。
実家にいた頃、サッカーのワールドカップをテレビで観ていた家族に対して、「よく90分ずっと見てられるね、ニュースのハイライトじゃダメなの?」と言って、サッカー部だった弟にすごいブーイングを受けました。
このブログを読んでいる人にも怒られそうで、どきどきです。。。
私はこれまで、自分がスポーツ観戦が苦手を「私には想像もできない努力をしてそこに立っている人たちに対して、一喜一憂したり、ミスした負けたと非難したりするのは、何か嫌だ」と説明していました。
小さい頃から運動が苦手なので、自分はできないくせに好き勝手に言う、みたいな後ろめたさが特にあったのかもしれません。
※念のために言っておくと、これは私の受け手として好みの問題で、ホラー映画が苦手、とか絶叫マシンはちょっと、というのと同じであってそのものを否定しているわけではないので、悪しからず。
しかし、今回のオリンピックの報道に対する様々な意見や記事を見ていると、それもちょっと違うのかも、と思えてきました。
端的に言うと、「自分はできもしないのに」というよりは、「よく知りもしないのに」という変化です。
例えばフィギュアスケートであれば、
・ミスをせずに滑り切る確率がどんなに低いのか
・あのジャンプは、あのターンは、どれだけ難しいのか
・この選曲や構成にはどんな意図が読み取れるのか
・表現力はどのように評価されるのか
みたいなことで、私はただフィギュアを見ていても、これらのことは全く分かりません。
分からないとどうなるかと言うと、二次情報に頼ります。
解説者がすごいと言ったらすごい、メダルを取れたからすごい選手である、のように誰かが読み取って下した評価をそのまま飲み込むことになります。
この例で言うと、解説者が言っていることが妥当なのかどうかすら、私には判別できないのです。
ついでに言うと、二次情報として出される情報は、第三者でも分かりやすいように加工されます。
その結果、オリンピックの解説が競技の面白さではなく、誰でも共感しやすい選手個人の内面や人生に偏ってしまい、それを批判する論調が出て来る結果になっているのかな、と思います。
だから私は、知りもせずに誰かの意見に同調するだけの自分が嫌で、スポーツ観戦が苦手なのかもしれません。
結局は、二次情報に頼らず、自分で読み取れるようになれってことですね。
よくよく考えてみると、大学選びにも実は同じことが言えます。
大学の良し悪しはどこを見れば良いのか、それが分からないと人の噂やパンフレットやインターネットといった二次情報に頼ることになります。
その二次情報が正しいのかどうか、判別することすらできません。
スポーツ観戦は娯楽ですから、解説者等の二次情報を鵜呑みにして誤解をしても、人生に大きな影響を与えることはないでしょう。
しかし、大学選びや就職活動では、そうは行きません。
自分の目で見て、自分の耳で聞いたものを、自分で読み取って判断する必要があります。
つまり、スポーツも進路も、見る目を養って初めて、見ることの価値や面白味がある、ということですね。


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