小学校における「協働」経験のリスクを考える

今度、小学校5年生向けのキャリア教育の授業を行うことになり、同僚と意見交換をしていたときのことです。
中高のキャリア教育や探究的な学びを見据えて小学生にやっておいて欲しいことは?という問いに対し、同僚は「一人でできないことがチームだと達成できたというような協働の経験」と答えました。

子どもの頃「みんなで一緒に」が苦手だった私には全くない発想で、私はその答えに一種のカルチャーショックを受けました。
もちろん、一人の社会人としてそのような経験や意識は必要だと理解しています。
なのに、どうしてそれを素直に受け入れられないのか。考えてみると、良い協働にはいくつか条件があるのでは、と気付きました。

条件① みんなで取り組む必要があること

「一人でできないことがチームだと達成できた」という成功体験に繋げるためには、そもそもチームじゃないと達成できないことである必要があります。お題が簡単だったり、一人の方が効率が良かったりする場合、誰かに負担が偏ったり、単純に手を抜いたりということが起きます。
私自身の経験に照らすと、例えば修学旅行で学んだことをグループで新聞にまとめましょう、という活動がありました。私は学んだことがたくさんあって、あれもこれも書きたい。一方でグループの子は適当に埋めれば良いと思っている。そうしてよく衝突をしました。一人で取り組んだ方が良い新聞が作れたのではと思いが強く、みんなでやったからより良いものが作れた、みたいな思い出は正直なところありません。
みんなで取り組んだ方が良いものができるようなお題、もしくはプログラム設計であれば良いのですが、協働ありきで何でもグループ活動、ということになっていないのか?問いたいと思います。

条件② 上位目標が共有されていること

前述の新聞づくりにも関わりますが、そもそも何のために新聞を作るのか、という目標が設定されていて、子どもたちに共有されていることも重要です。
私は「ちゃんと」した新聞が作りたい。他の子は新聞が完成すればよい。そもそも目標がかみ合っていないので、お互いに不満を持って終わってしまいます。
「どんなことをしたのかをまとめて、下の学年の子たちが来年楽しみになるような壁新聞をつくろう」とか「それぞれの視点で気づいたことや学んだことをまとめて、お互いの発見につなげよう」みたいに、何かあればそれを拠り所に話し合いができます。
もちろん、そこへの動機づけもできていないと、サボりたい子はでてきてしまいますが。

条件③ 多様な関わり方(活躍の仕方)の選択肢があること

ちょうど最近、元麹町中校長の工藤先生が合唱コンクールの課題について触れている記事を読みました。

https://logmi.jp/business/articles/327799

合唱コンを「感動体験」だと思っている、日本の学校の“ズレ”
“型破り校長”工藤勇一氏が語る、「心の教育」の本当の意味

内容自体は協働についてのものではないのですが、合唱コンクールは「音痴で、生まれながらにどうにもならない人もいる」ということも含めて考えられてない、と指摘されています。
その活動で活躍できるかどうかが、歌が上手いかどうかの1点しかないことが、問題なのではないかと私は受け止めました。
本来の「一人でできないことがチームだと達成できた」はそれぞれが得意を活かしあって、もしくは苦手を補い合って、という側面があると思います。
新聞づくりで言えば、そのときは紙を4分の1にしてそれぞれ埋めるというやり方を取ったのですが、本来は内容を考える人、書く人、絵や写真を入れる人、など別の分担の方法もあったはずです。もしかすると私が不真面目だと判断したグループの子は書く内容を上手く考えられなかっただけなのかもしれません。一緒に話して考えるのを手伝う。逆に私は字や絵がすごく下手だったので書いてもらう。そんな風に一緒に新聞づくりができたら自分一人ではできない、もっと素敵な新聞になったのかもしれません。

「みんなで一緒に」に対する嫌な思い出が多すぎて冷静にまとめるのも一苦労でしたが、こんなことを考えたのでした。