「大人しくて良い子たち」と言うか、「個性的で面白い子たち」と言うか

あっという間に1月も終わりですね。すっかり更新が滞っておりましたが、サボっていたわけではなく、ワードプレスで色々なエラーがあって更新が上手くできなかったのです。(解決を放置していたと言えばそれまでですが)
あ、明けましておめでとうございます。

さて先日、日南市にNEWVERY時代に何度かご一緒しているNPO法人D×Pの今井さんが来ており、その今井さんと、少年院出身の若者支援をする良心塾の黒川さんの講演を聞く機会がありました。

その時に改めて思ったのが、教育や若者支援で一人ひとりにちゃんと向き合っている人って「個性的で面白い子たち」とか「魅力的で可能性に溢れた子たち」という表現をする人が多いな、ということ。
これは前から思っていることでもあるのですが、教育者であれ、マネージャーであれ、友人関係であれ、接している人を「個性的で面白い」と捉えている人って、相手とちゃんと関係を築き、見ている人なんじゃないかな、という気がするのです。

まず前提として、この相手には個性を発揮しても大丈夫だ、という安心感が必要です。
思春期の子どもたちに「感想は?」と聞くと、「別に」とか「普通」と返ってくることが多くありますが、その背景には警戒や不信があります。
「面白かった」「良かった」という無難な回答も同じですね。
もちろん、本当に思ったことを言ってもいい場面・相手と、そうじゃない場面・相手がありますので、本当のことを言わないこと自体は問題ではありません。
ただ、そういう距離感の関係性だということです。

何を聞いても「別に」しか返って来ない、今の若者は何を考えているのか分からない、という声もよく聞かれますが、それは自分を出しても良いと思える関係性が築けていない、ということだと思います。

さらに関係性を築き、その子が本音をもらしたり、本当の姿を垣間見せたりしたときにそれをどう捉えるか、それも大きな違いです。
例えば寝食を忘れてゲームに没頭いる子がいたとして、その子のその行動を面白がれるかどうか。
ゲームばっかりしているダメな子と見るか、そこまでゲームに集中できるなんてすごいな、と見るか。

自分や人を傷つけるとか、犯罪になるとか、そういう一線を越えた言動でない限り、物事に良し悪しとか優劣はない、と思っています。
例えば、私は子どもの頃から今に至るまで本もマンガも読みますが、本を読むと「すごいね」と言われ、マンガを読むと、もういい大人なのにと見られたりします。子どもの頃であれば「マンガばかり読まずに勉強しなさい」と。

私にとってはどちらも同じ娯楽であり、同時に色々なことを考える学びでもあり、本であるかマンガであるかに大きな違いはありません。
「本をたくさん読む偉い子」となるか、「マンガばかり読んで勉強をおろそかにしている子」となるかは周り次第です。

私自身もまだまだではありますが、出会うのは「個性的で面白い子たち」ばかり、と言えるような付き合い方、捉え方をしていきたいな、と思うのでした。