友だちがいない問題を否定されて気付いたこと

こんばんは。
最近はびっくりするくらい寒くなりましたね。
私は家族の事情で帰省中なのですが、こちらもとても寒いです。

さて先月、WEBマガジン「ひみつ基地」に、『大学に友達がいない「ぼっち」対策に力を入れる大学の今-誰とも会話を一日せず、4年間で友達ゼロの大学生も』というタイトルで記事を書かせていただきました。
(このWEBマガジンは、私がボランティアとして活動しているNPO法人夢職人が発行の主体となっており、子どもや若者の支援に関する様々な情報を掲載するWEBマガジンとしていて、年1~2くらいで記事を書かせていただいています)

この記事が思いのほか反響をいただいているのですが、共感していただく一方で、「自分は友だちがいない(or少ない)けど、別に苦労していない」という声も多くいただきます。
もちろん、私も友だちがいないことが必ずしもネガティブだとも思いませんし、それで人生のすべてが決まるとも思いません。
一方で、「友だちを作りたいのにうまく作れなくて苦しい」、という状況について、こんなにも共感されないものなのか、と驚いているのも事実です。

というのも、私自身は人見知りのためか友だちを上手く作れず、苦しかった思い出がたくさんあるからです。
例えば、小学校の修学旅行の班決め。自由に組んでいいと言われても、いわゆるグループにはうまく属せていなかったので、誰と組んでいいかわからず、辛い時間を過ごしました。
中学生のときは、昼休みに一緒に過ごす友人がおらず、「友だちを探している」という体で学校中をうろうろしていたこともありました。(もちろん、探している友だちなど存在しないので、ただうろうろして終わります)
高校のときは塾の子と仲良くなれず、塾の合宿では目覚ましのアラームで起きれたのが私だけだったのに、ゆすって起こしてあげるということができずに、とにかくアラームを鳴らしまくって自然に起きてもらうのを待っていたなんてこともありました。
大学生のとき、複数の大学から学生が集まってくる合同合宿に参加したときも、うまく友だちを作れずに、食事も一人。
最終日のお別れパーティでも話す人がいないので、体調不良と言って途中から部屋で寝ていました。

こうは言っても、全く友だちがいなかったわけではありません。
合宿のような短期的な場では友だちが作れずに終わることも多々ありましたが、クラスや部活では友だちを作り、放課後や土日に友だちと遊ぶこともありましたし、小中高と友だちと一緒に登校もしていました。
きっと多くの友だちは、私が上記のような状態にあったことに驚き、笑ってくれるでしょう。
なのに、どうしてこんなに「友だちがいないコンプレックス」があるのか。

おそらく、友だちがいないことで発生する「居心地の悪い時間」が、強く心に残ってしまっているのだろう、と気付きました。
自分がここにいていいのか分からないような、いたたまれない気持ち。
別に誰も自分のことなど気にしていないのに、浮いているように感じる長い長い時間。

一人でラーメン屋に入れないとか、カラオケに行けないとかも、おそらく似たような感覚です。
一人で行けるかどうかは性格もあるでしょうし、慣れもあるでしょうが、一方で友人と一緒でも行けない、という人は少ないでしょう。(そもそもラーメンが嫌いという人もいると思うので、ゼロとは言いませんが)
つまり、誰か(それも親しい人)と一緒にいることで、緊張感が解け、その場が「居心地の良い場所」になり得る(少なくとも居心地の悪い場所ではなくなる)ということです。

大学に入って一人も友だちがいない、というのは、確かに人によっては大した問題ではないかもしれません。
しかし、友だちがいないことによって、常に緊張感を強いられ、居心地の悪い場所になっているとすれば、どうでしょうか。
友だちがいないことによって、その環境にただいることさえ苦痛になるとすれば、それを回避したくなるのは、仕方のないことのように思います。

大事なのは「居心地の良さ」や「その場が安心・安全と思えること」であり、友だち(=気を許せる人)が一人もいないことで、ただその場にいることが苦痛なのだとすれば、それは理解して支援してあげてもいいのかな、と思うのでした。
そしてもちろん、友だちを作る以外にも、その環境を自分にとって居心地の良い場所にする方法がある、ということは補足しておきます。


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