結果への評価について考える

こんばんは。
まだ8月とは思えないほど、涼しくなってきましたね。
そんな今日のテーマは「結果と評価」について。

自分では特殊だと思ったことがなかったのですが、小学生のとき、我が家ではテストの結果によってお小遣いがもらえる制度がありました。
おそらくどの小学校でも行われていたと思うのですが、中学校からの定期テストのようなものではなく、単元ごとに行われる(おそらく教科書の業者さんが作っている)テストで、100点だったらお小遣いがもらえる、という制度。
そしてその金額が、私だったら10円で、弟だったら100円だったのです。

先日、この話を職場の人にして驚かれるまで、私はこのことを全く不思議に思っていませんでした。
もちろん、それを知った当初は不公平だ!と思いましたが、母は「頻度が違うからね」というようなことを言っており、何だかんだで私も納得していました。
実際、私は勉強が得意で運動が苦手なインドアタイプ、弟は勉強が苦手で運動が得意なアウトドアタイプで、もらった総額は私の方が多いくらいかもしれません。
運動会や部活で活躍し、誉められていたのは弟の方でしたが。。。

さて、指摘されてよくよく考えてみると、世間的には姉弟で同じ金額にすることを平等だと言うでしょう。
しかし、同じ金額だったとき、弟は不平等だと不満を募らせたと思います。

こうした経験があるからか、私は同じ「結果」に対して、同じ「評価」を与えるべき、とは思いません。
その「結果」に致るための「過程」や「負荷」は人それぞれだからです。

そう言えば、チャレンジ(進研ゼミの課題)が1冊終わるごとのお小遣いは、同じ100円だったことを思い出しました。
チャレンジを1冊終わらせる、というのは、労力としても(多少かかる時間は違えど)同じくらいですし、機会も同じです。
要は「課題が終わる」という「結果」ではなく、「全ての課題に取り組む」という「過程」を評価していたので、同額だったのではないかと思います。

こうして、改めて母が何を伝えていたのか考えてみると、「目標を高く持て」ということだったのでは、と思い至りました。

中学生になると、試験のときには「90点以下は0点と同じ」と言われていました。
「“やればできる”と言っても、やっていないならできないのと同じ」ともよく言っていました。
思春期には追いつめられたときもありましたが、競争の少ない地方から、東京に出てもやっていけるようになるためには、必要な環境だったのでは、と今となっては思います。

子育てにおける「ごほうび」や「ほめ方」については、賛否両論あり、考え始めると深みにはまりそうなので今回は避けたいと思いますが、自分を形成する価値観について、また一つ整理することができました。


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