「足りないこと」の価値

こんばんは!
先週末に事務所の引っ越しが行われ、今週から新しいオフィスで業務をしています。
新しい環境に移るというのは、新鮮な気持ちになれて楽しいですね。

さて、そんな新鮮な気持ちの5月、見かけるようになったのが修学旅行生(らしき学生)。
私の中では、「ハイソックス(主に白)にスニーカーは修学旅行生」と勝手に認定しています。
東京の高校生は、スニーカーではなく、ローファーを履いている、というのが私の認識です。
この話を同僚にしたところ、同僚は東京出身だからか意識をしたことがなかったらしく「言われてみれば確かに!」と言っていました。
地方の子に敏感なのもまた、地方出身者の特性なのかもしれません。

地方と言えば先日、4年間地方に転勤していた後輩が東京に戻ってきたのですが、その後輩は「地方に行って視野が広がった」と言っていました。
その子は神奈川出身だったのですが、大学も東京だったために実家を出ることはなく、ずっと近い文化圏で育っていたので、地方に行って新しい価値観を色々知れた、ということでした。
その子が話していて印象的だったのが「東京の人は恵まれているけど、欲がない」という話。
私は大学生の頃から「熊本から東京に来たとき、得られる機会の格差に驚いた。そして、その恵まれた機会を生かさない大学生たちに対して、心からもったいないと思った」という経験を、教育分野へ踏み出す原体験として語っていたのですが、後輩は地方に出て初めて私の言っていた意味が理解できた、と言っていました。
私が感じていた「もったいなさ」は、首都圏の子にはピンと来ないことだったんだな、と改めて実感しました。

地方活性化(地方創生と呼んだ方がいいのかもしれませんが)の取組みの話を聞いていると、「ないものはない」とか「○○はあるけど、××はない」とか、ものの有る・無しをコピーや題材にした例をいくつも見かけます。
私も地元について、「仕事がない」とか「遊ぶ場所がない」とか、「ないもの」の話をよくしています。
つまり地方においては、何かがあったり、なかったりして、それがみんなの関心事になる、ということです。

もちろん、考え方次第であって、ないものを数え上げても仕方ない、という意見もあると思うのですが、この「ない」という感覚を持っているのって実は大事なのかな、と思います。
災害などになって初めて「当たり前だと思っていたものが、当たり前ではないと気付いた」といった話がありますが、同じような感覚です。

そう考えると、東京は恵まれた環境でありながら、足りないものが足りない、残念な環境であるように思えてきます。
自分自身のことを振り返っても、「こんなすごい人を会えることは二度とないかもしれない!」とか「こんな貴重な機会はもう最後かもしれない」なんて感覚になることは、ほとんどありません。
東京にいれば、すごい人に会う機会は(濃度はさておき)たくさんありますし、様々なイベントや施設が一生住んでいても網羅できないくらいにあります。
知らず知らずのうちに、巡ってくる機会を軽視するようになっていたのでは、と気付きました。

ちょうど自宅の引っ越しも控えていて、家とのお別れについて考えているところだったので、一つ一つの巡り合わせを大事にしよう、と思った今日この頃でした。


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