子どもと向き合い、認めること、教育を学ぶこと

こんばんは。
長いように思えたGWも、もう終わってしまいました。
ただマイペースにゆっくり過ごせたからか、休み明け初日から仕事ははかどっています。

さて、昨日のことになるのですが、友人と映画「ビリギャル」を観てきました。
書籍が流行り始めた頃は「何だかなぁ」とナナメに見ていた私。
しかし、書籍を読み、坪田先生(※主人公を慶応に進学させた塾の先生)を直接知る数名の知人から坪田先生の人柄を聞き、さらに坪田先生とさやかちゃん本人のトークライブも見に行き、と知るにつれて、すごく親近感を感じるようになりました。
とは言え、映画も流行に乗った感があって最初は観るつもりはなかったのですが、Facebook上で教育関係の方が何名も「良かった!」と書いていて、これは観に行かねばと思って行ったのでした。

行ってみた結果は・・・ひたすら号泣!
原作からずれることなく、大事な部分がきちんと表現されていて、行って良かったと思いました。

今回映画を観て改めて思ったのは、
・子どもと向き合うことと、干渉することは違う
・子どもを認めることと、干渉しないことは違う
ということです。

ネタバレにならない程度にもう少し具体的なシーンで言うと、
向き合う=子どもと対話し、目標を見出す手伝いをし、その機会を作る。逃げようとしたら、それで幸せなのか、ということを問う。
干渉する=勝手に描いた夢を子どもに押し付け、その夢に沿った行動のみを認め、強制する。逃げようとしたら、頭ごなしに否定する。
認める=子どもの良さに気付き、可能性を信じ、それを具体的な言葉で、声に出して本人にも伝える。
干渉しない=何をしていても無視をする。期待しない。

「向き合う」や「認める」というのは、行動としては少し相反するようですが(と思うのは、私だけでしょうか?)、この2つの中心には、相手(子ども)がいます。
相手が何に興味を持ち、好きになり、嫌いになり、得意になり、苦手になっているのか、一生懸命に目を凝らし、じっと耳を澄ませます。
それからの「声かけ」や「問いかけ」だからこそ、成立するのだろう、と思います。

主人公の「さやかちゃん」の周りには、様々な人がいました。
両親、弟と妹、学校の先生、塾の先生、クラスメイト、塾の同級生・・・
この様々な人たちが、上記のような様々な(良いも悪いも含めた)関わり方をする中で、見えてくるものがあり、それが興味深かったです。

また、たまたまなのですが、このGW中に保育園の運営をする会社で働く友人と、幼稚園の先生をしている友人と、飲みながら教育の話をする、という機会がそれぞれ別の機会としてありました。
そこで話していて出てきたのが、教育や子育ては、とても難しくて学ばなきゃいけないことがたくさんあるのに、そういうものだということすら認識されていない、ということです。

前述の「向き合う」とか「認める」というのは、言うのは簡単ですが、具体的にどのような言動を取るものであるのか、実践するのはとても難しいことです。
子どもにもよりますし、自分の立場(親なのか、先生なのか、その他の立場なのか)によっても大きく変わります。
本を読むだけではなく、上手い人の様子を観察して真似たり、自分でPDCAを回して工夫したりして向上させていかなければなりません。
しかし、粉ミルクの作り方やおむつの替え方は学ぶものだと認識していたとしても、子どもとどう接するべきなのか、ということについてはどれだけ「学ぶもの」という認識があるのでしょうか。

映画の中で「ダメな子どもなんていない。いるのはダメな教育者だけ」という感じの(記憶が曖昧ですが)セリフが出てきます。
子どもが言うことを聞いてくれない、というときも「何度言っても分からないなんて、何てダメな子だろう」ではなく、「私の言い方がダメだった」と思わないといけない。
もはや教育に限らないことですが、このことを改めて肝に銘じたGWでした。


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