6ヶ月を迎えた我が子を通じて主体性について考えてみた

最近、主体性について考える機会が多かったのですが、主体性に関する言説の一つに「主体性は誰しもが元々持っているものであり、伸ばす、育てるというのはおかしい。妨げない、と考えるべき」というものがあります。
それについてはなるほど、と納得したのですが、元々持っているというのであれば、と生後6ケ月を迎えた娘に当てはめて考えてみました。

主体性を「受け身ではない」と捉えると、娘は主体性の塊です。
こちらの意思に応じて動くことは何もありません。
自らの赴くままに手足を動かし、おもちゃをなめまわし、私の髪を引っ張ります。
ミルクを飲むのも、離乳食を食べるのも本人次第。
もっと飲んで欲しいと思っても何一つコントロールすることはできません。
寝かしつけだって本人が眠るサポートであって、寝ないときは寝ないですし。

一方で、主体性に本人がこうしたいという意思が必要と言うのであれば、娘にはまだ意思というものはないのかもしれません。
全ては動物的な本能のまま、こうしたい、こうしようという意思を挟んで手足が動くのではないのかもしれない。

人間は考える葦である、とはよく言ったもので、主体性には意思(考え)と行動がセットでついてくるものなのかな。そんなことを考えたのでした。
何においても娘は可愛いです。